初めて付き合った「女の子」の話 1

これは私に、初めて恋人ができたときの話である。
過去の恋愛の話など、誰かに話すきっかけもない。
だけれど、私の中でずっと燻っていて、いつまでも消化ができない。
だからここに、匿名で書き残すことを許してほしい。


時は学生時代にさかのぼる。

新学期、初めての授業で後ろの席に座っていたのが彼女だった。

 

きっかけは私が筆記用具を落としたことだった。
落としたキャラクターもののペンを探して後ろを振り返ると、彼女の机の上にそのペンが置いてある。
「落としたものが、なぜここに?」
と思って呆けていると、彼女は全く同じペンを床から拾って私に差し出した。
何のことはない、彼女と私はたまたま同じペンを持っていたのだった。

おなじキャラクターが好きであるというところから話が始まり、
漫画と音楽が好きなこと、同じバンドが好きなこと、楽器を練習していること、
軽音サークルに入ろうと思っていることなど、
たくさんの共通点が見つかった私達はすぐに打ち解けた。

私達はその足で軽音サークルの見学へ向かった。
間近で聞く生ドラムとそれに合わせた楽器の音があまりにも大きく、
顔をしかめながら耳を塞いでいる失礼な私を、彼女が笑って見ていたのを覚えている。
そのまま2人で入部届を出し、同じようにサークルに入った他のクラスメイトとバンドを組んだのだった。

 

初めての曲が形になり始めた頃、
軽音サークルとしては一大イベントである、文化祭がやってきた。

ステージイベントの大トリは軽音サークルが締めるのが恒例だった。
その中でも最後に演奏するのが部長達のバンドだった。

部長は、背が高く、前髪が長くて、あまり喋らず、でもギターは上手いみたいな、
絵に書いたようなバンドマンだった。

部長はギターボーカルを担当していて、よく知らないバンドの聞き取れない歌詞の曲を演奏していた。
彼らのステージは最高に盛り上がった。
曲のブレイクでメンバー全員がジャンプした時などは客席から黄色い悲鳴が上がった。
その場にいた女子全員が部長に恋をしたに違いなかった。

彼女も例には漏れなかった。
彼女はすぐに「部長と付き合いたい」と言うようになり、
私はそれを、なんとなく切ない気持ちで応援した。
私から見ても部長は憧れそのものであったが、一番の友達を部長に奪われたような、複雑な気持ちだった。

 

彼女と部長が付き合うようになったのは、そこから数ヶ月経ってからのことだった。
部長は私達よりいくつか年上で、サークルの引退、そして卒業が迫っていた。
今のように会えなくなる前にと、彼女が部長に告白したのは自然な流れだった。

私はそれを、彼女と2人で遊んでいた日に直接聞いたのだった。
楽器屋でギターを触ったり、エフェクターを眺めたりしている最中だった。

「こんど部長とデートするんだ」

と言われ、私は不覚にも動揺した。
エフェクターのツマミを回しながら、デートするってことは手も繋ぐだろうし、キスもするんだろうかと想像した。
その先も想像して、寂しいような泣きたいような気分になったのを覚えている。

どうしてそんな気持ちになるのかわからなくて、ただ一言
「よかったね」
と答えることしかできなかった。

 

そのうち私は自覚するようになった。

私は部長に憧れていたし、
私は彼女のことが好きだった。
憧れの人と好きな人を同時に失った感覚だった。

彼女は私を友人だと思ってくれていたから、部長と付き合うようになったところで関係性が変わったわけではない。
それでも切ない気持ちになるというのは、独占欲だとか嫉妬だとかそういう、恋愛感情の類なのだと気付いてしまった。

彼女と手を繋ぎたいし、キスもしたい。
そう思っても彼女はすでに憧れの部長と付き合っていて、私にチャンスはない。
悶々と日々を過ごす私に転機が訪れたのは、思ったよりもずっと早いタイミングだった。

 

これは私の持論であるが、バンドマンというのは大抵女癖が悪い。
私達の憧れの部長も例には漏れなかった。
彼女が泣きながら電話してきたとき、2人が付き合い始めてから1ヶ月半しか経っていなかった。

部長は同学年の先輩とすでに付き合っており、彼女は浮気相手であったこと。
また男性経験のない彼女とすぐにヤリたがり、優しさや愛を感じられなかったこと。
彼女はそれに耐えられず、部長と別れたのだと言った。

どういった話の流れかは覚えていないが、
感情の昂ぶった私はつい彼女に
「あなたたちが付き合い始めたとき、好きな人を同時に2人失った気分だったんだ」
と伝えてしまった。

彼女は困惑しながらこう答えた。

「私、そういう趣味はない」

私の心に冷たい風が吹いた。

「男」である部長と付き合っていた彼女が、
「女」である私と付き合うなどということはありえない。
わかっていたことではあったが、改めて口にされるとどうしようもなく悲しかった。

私も勢いで言ってしまっただけで、まさか彼女とどうこうなろうとは思っていなかった。
しかし彼女は想像に反してこう言ったのだった。

「でも、あなたならいいかなぁ」

叶うと思っていなかったことが、突然叶ってしまった。
驚きのあまり号泣する私と、それを聞いていつものように笑う彼女。

これが私達の恋愛のスタートだった。

 

つづく。

"女(男)は○○である" という論調は総じてクソである

女はかよわい。女は物事の本質をわかってない。女は感情的で感覚でうごいている。
女は金を稼ぐのに向いていない。女は家事育児に向いている。
男は力が強い。男は感情の機微がわからない。男は論理的思考に基づき行動する。
男は社会の荒波の中で金を稼ぐことが本分であり、家事育児に向いていない。

 

これは昭和時代、ステレオタイプの男女観である。
こんなことをSNSで発信しようものなら、すぐに大炎上してしまうだろう。
一方で、女性の権利を謳う人たちの一部はこう言う。

 

女は強く、男にも負けない思考力を持ち、男よりも物事を理解している。
家事育児は夫婦平等に行われるべきで、女は社会で男同様に稼ぐべきである。
これに反発する者は、フェミニズムの敵である。


主義主張は置いておいて、実際のところどうなのか?と考える。

 

スポーツが得意で力が強くて「ゴリラ」と揶揄された女の子。
本ばかり読んで力が弱くて「もやし」と揶揄された男の子。

頭が良く理屈っぽいことばかり言って嫌われた委員長の女の子。
いつもフワフワして何考えてるんだかわからなかった美術部の男の子。

子供を預けてバリバリ働くキャリアウーマン。
子供が大好きだからと保育士になったお兄さん。

女の子が好きな女の子。
男の子が好きな男の子。

 

彼女、彼らは一体何なのか。
女らしくなくて、男らしくなくて揶揄されたマイノリティの彼らは、
本当は一人で子供を育てるべきなのにその義務を果たさない育児放棄女なのか?
本当は子供を性的対象と見ているのに子供に優しいふりをしているだけのロリコン男なのか?

そういう事案もあるかもしれないけれど、すべてがそうだとは言い切れない。
ほとんどが「その人が本当にそう思って好きなことをしている」のではないだろうか。

 

「本当はか弱い女の子でいたいのに、ゴリラって馬鹿にされてもスポーツは続ける」
そんな苦行をわざわざする意味がわからない。
当然に彼女は、ドッジボールが好きで、お日様の下で元気に遊ぶのが好きなんだろう。

 

同様に、本ばかり読んでいた男の子はただ本が好きなだけだし、
女委員長は頭が良くて論理的に物事を考えていたし、
フワフワしてた彼は独特の感性の持ち主で、いつか素敵な作品を世に出すのだ。

彼らは実際に存在している。

 

だからといって
「本当は女のほうがスポーツが得意なんだ!」
「本当は男のほうが感性豊かなんだ!」
とはならない。

 

ここまでの事例は一般的にはマイノリティである。
(隠れているだけで実はそうでもないこともあるかもしれないが)

男のほうが筋力は強いことが多いし、女のほうが感情的であることが多い。
これは体の作りやホルモンバランスなどによるものだし、統計的にもそういったものが多い。

 

これが問題である。

 

「女は統計的に〇〇とされている」というのはイコール「女は〇〇である」ではない。
「女は〇〇であることが多いが、△△や□□な場合もある」である。

 

しかし、SNSやメディア等ではとかく「女は実は○○である」「男は意外に○○である」という論調で広がりがちである。

 

「女はイケメンが好きだというが、実は顔よりも性格をよく見ている」
「女は専業主婦をしているよりも、社会で働いたほうが気楽である」
「男は車を好むというが、実はコストパフォーマンスを気にしていて、高価な車は買わない」
「男はバリバリ働いて稼ぐより、子供との時間を大切にしたいものである」

 

こんな話はよくSNSに流れてくるが、
とにかくイケメンが好きな女性は普通に存在するし、
専業主婦として夫を支えつつ子育てに専念したい女性も、
目が飛び出るような高価な車に憧れる男性も、
家事や子育てが苦手でお金を稼ぐことに専念したい男性も居る。


要するに「人それぞれ」なのである。
確かに「女」というくくりで見れば統計的には「女らしい女」が多いのかもしれない。
しかし「女らしくない女」はたくさんいるし、だからといって女でないわけではない。
また同じ人物の中に「女らしくない一面」がある一方で「女らしい一面」もあったりする。

 

Aさんはスポーツが好き。
Bさんは本を読むのが好き。
Aさんは外で働くのが得意で、
Bさんは毎日の家事が得意である。

 

というだけの話を、女だから、男だから、女なのに、男なのに、と言い出すからややこしい。
Aさんが男性でBさんが女性であれば、それは昭和時代によく見た夫婦の姿であるが、
Bさんが女性でAさんが男性でもなんらおかしくはない。(現在の日本社会で生き辛いことは否めない)

 

統計的に見えてくる性差はあるものの、
人間同士の付き合いで言えばそれはただの「個人差」である。

 


ここまで「男女」という括りで考えを進めたけれど、これは他のどんなことにも言える。
日本人、外国人、黒人、白人、大阪人、東京人、障害者、健常者、中高校生、高齢者、
レズビアン、ゲイ、バイ、トランスジェンダー、押しなべて主語が大きい。


日本人の多くが○○であったとき、そうでない日本人が1%しか居なくても、その数は126万人である。
126万人を無視して「お前は日本人だから〇〇である」と決めつけることの無益さと言ったらない。

 


もっと個人を見るべきである。
マイノリティを特別に尊重するのではなく、マジョリティだろうがマイノリティだろうが目の前の個人を尊重するべきである。

自分と違う性別、人種、年齢、性的指向というだけで宇宙人かのような扱いをせず、
また自分と同じ性別、人種、年齢、性的指向というだけで自分と同じだと思いこむべきではない。

 

そうして少しずつ違う個人を尊重し、
それぞれがそれぞれのやりたいように生きることができたら、

それが本当の「多様性のある社会」なのだと思う。