"女(男)は○○である" という論調は総じてクソである

女はかよわい。女は物事の本質をわかってない。女は感情的で感覚でうごいている。
女は金を稼ぐのに向いていない。女は家事育児に向いている。
男は力が強い。男は感情の機微がわからない。男は論理的思考に基づき行動する。
男は社会の荒波の中で金を稼ぐことが本分であり、家事育児に向いていない。

 

これは昭和時代、ステレオタイプの男女観である。
こんなことをSNSで発信しようものなら、すぐに大炎上してしまうだろう。
一方で、女性の権利を謳う人たちの一部はこう言う。

 

女は強く、男にも負けない思考力を持ち、男よりも物事を理解している。
家事育児は夫婦平等に行われるべきで、女は社会で男同様に稼ぐべきである。
これに反発する者は、フェミニズムの敵である。


主義主張は置いておいて、実際のところどうなのか?と考える。

 

スポーツが得意で力が強くて「ゴリラ」と揶揄された女の子。
本ばかり読んで力が弱くて「もやし」と揶揄された男の子。

頭が良く理屈っぽいことばかり言って嫌われた委員長の女の子。
いつもフワフワして何考えてるんだかわからなかった美術部の男の子。

子供を預けてバリバリ働くキャリアウーマン。
子供が大好きだからと保育士になったお兄さん。

女の子が好きな女の子。
男の子が好きな男の子。

 

彼女、彼らは一体何なのか。
女らしくなくて、男らしくなくて揶揄されたマイノリティの彼らは、
本当は一人で子供を育てるべきなのにその義務を果たさない育児放棄女なのか?
本当は子供を性的対象と見ているのに子供に優しいふりをしているだけのロリコン男なのか?

そういう事案もあるかもしれないけれど、すべてがそうだとは言い切れない。
ほとんどが「その人が本当にそう思って好きなことをしている」のではないだろうか。

 

「本当はか弱い女の子でいたいのに、ゴリラって馬鹿にされてもスポーツは続ける」
そんな苦行をわざわざする意味がわからない。
当然に彼女は、ドッジボールが好きで、お日様の下で元気に遊ぶのが好きなんだろう。

 

同様に、本ばかり読んでいた男の子はただ本が好きなだけだし、
女委員長は頭が良くて論理的に物事を考えていたし、
フワフワしてた彼は独特の感性の持ち主で、いつか素敵な作品を世に出すのだ。

彼らは実際に存在している。

 

だからといって
「本当は女のほうがスポーツが得意なんだ!」
「本当は男のほうが感性豊かなんだ!」
とはならない。

 

ここまでの事例は一般的にはマイノリティである。
(隠れているだけで実はそうでもないこともあるかもしれないが)

男のほうが筋力は強いことが多いし、女のほうが感情的であることが多い。
これは体の作りやホルモンバランスなどによるものだし、統計的にもそういったものが多い。

 

これが問題である。

 

「女は統計的に〇〇とされている」というのはイコール「女は〇〇である」ではない。
「女は〇〇であることが多いが、△△や□□な場合もある」である。

 

しかし、SNSやメディア等ではとかく「女は実は○○である」「男は意外に○○である」という論調で広がりがちである。

 

「女はイケメンが好きだというが、実は顔よりも性格をよく見ている」
「女は専業主婦をしているよりも、社会で働いたほうが気楽である」
「男は車を好むというが、実はコストパフォーマンスを気にしていて、高価な車は買わない」
「男はバリバリ働いて稼ぐより、子供との時間を大切にしたいものである」

 

こんな話はよくSNSに流れてくるが、
とにかくイケメンが好きな女性は普通に存在するし、
専業主婦として夫を支えつつ子育てに専念したい女性も、
目が飛び出るような高価な車に憧れる男性も、
家事や子育てが苦手でお金を稼ぐことに専念したい男性も居る。


要するに「人それぞれ」なのである。
確かに「女」というくくりで見れば統計的には「女らしい女」が多いのかもしれない。
しかし「女らしくない女」はたくさんいるし、だからといって女でないわけではない。
また同じ人物の中に「女らしくない一面」がある一方で「女らしい一面」もあったりする。

 

Aさんはスポーツが好き。
Bさんは本を読むのが好き。
Aさんは外で働くのが得意で、
Bさんは毎日の家事が得意である。

 

というだけの話を、女だから、男だから、女なのに、男なのに、と言い出すからややこしい。
Aさんが男性でBさんが女性であれば、それは昭和時代によく見た夫婦の姿であるが、
Bさんが女性でAさんが男性でもなんらおかしくはない。(現在の日本社会で生き辛いことは否めない)

 

統計的に見えてくる性差はあるものの、
人間同士の付き合いで言えばそれはただの「個人差」である。

 


ここまで「男女」という括りで考えを進めたけれど、これは他のどんなことにも言える。
日本人、外国人、黒人、白人、大阪人、東京人、障害者、健常者、中高校生、高齢者、
レズビアン、ゲイ、バイ、トランスジェンダー、押しなべて主語が大きい。


日本人の多くが○○であったとき、そうでない日本人が1%しか居なくても、その数は126万人である。
126万人を無視して「お前は日本人だから〇〇である」と決めつけることの無益さと言ったらない。

 


もっと個人を見るべきである。
マイノリティを特別に尊重するのではなく、マジョリティだろうがマイノリティだろうが目の前の個人を尊重するべきである。

自分と違う性別、人種、年齢、性的指向というだけで宇宙人かのような扱いをせず、
また自分と同じ性別、人種、年齢、性的指向というだけで自分と同じだと思いこむべきではない。

 

そうして少しずつ違う個人を尊重し、
それぞれがそれぞれのやりたいように生きることができたら、

それが本当の「多様性のある社会」なのだと思う。